災害は「天罰」なのか。清水幾太郎の怒り
関東大震災を経験した社会学者の言葉を読む。
■庶民の生命が失われ、「ブルジョワ」の被害は少なかったが…
だが、実際には多くの貧しい庶民の生命が失われ、山の手に住む「ブルジョワ」の被害は相対的に少なかった。「天」は、腐敗した金持ちや権力者に罰を下すために、罪のない大多数の貧しい庶民の生命を奪ったのだろうか。
自然現象である自然災害に、本来意味はない。しかし、大きな被害を前にして、何かしら意味を見出そうとするのも、人間の自然な心理である。社会が被った甚大な損失を「天」や「神」のような超人間的な存在が人間に下した「罰」ととらえるのも、一つの解釈の形であろう。
だが、「罰」を受けるのが正当なのは、それに相応しい「罪」を背負った者だけだ。災害を「天罰」としてとらえることは、被災者がその「罰」に相応しい「罪」を背負っていたと主張することと等しい。
災害は、腐敗した者にも無垢な者にも無差別に襲いかかる。「罪」のない者に「罰」が下されるのはおかしな話であるし、もし「天」や「神」が本当に「罰」を下しているとしたら、そんな道理すらない「天」や「神」を信じる必要はない。
清水は、先の文章に、自らが訳出した哲学者ヴォルテールの、リスボン大震災に捧げた詩を付している。
如何なる罪を、如何なる過ちを犯したというのか、
母親に抱かれたまま潰されて血に塗れた子供たちは。
今はないリスボンの悪徳は、
享楽に耽っているロンドンより、
パリよりも大きいというのか。
リスボンは亡び、
パリでは踊っている。